
和歌山の田舎から京都の女子大に入学した水絵。
そんな水絵に近づく美貌の上級生・日奈子。
日奈子の魅力に誘われ部屋に行くと、日奈子は水絵からファーストキスを奪い、陵辱。
そして最後に陰毛を剃り上げる。
それは日奈子が水絵を自分のものになった「しるし」だった。
水絵は日奈子から逃れられないのか?初心な新入生と類い希なる美貌の上級生の欲望が絡み合うインモラルな性愛小説。
花房観音
和歌山の田舎から京都の女子大に入学した水絵。
そんな水絵に近づく美貌の上級生・日奈子。
日奈子の魅力に誘われ部屋に行くと、日奈子は水絵からファーストキスを奪い、陵辱。
そして最後に陰毛を剃り上げる。
それは日奈子が水絵を自分のものになった「しるし」だった。
水絵は日奈子から逃れられないのか?初心な新入生と類い希なる美貌の上級生の欲望が絡み合うインモラルな性愛小説。
コメント
京女生、OGは一読の価値あり!
むしろ、主人公の2人に関する背景の描写が多い。
もちろん、そこにも性的な描写が描かれていて、それが最もボリュームが大きかった。
個人的にはもっと片方に針が振り切っていた方が好みなので、消化不良になってしまった。
作品中で、ろくでもない男ばかりが登場する、某国立大学も、架空の名称です。
でも、寺社や幾つかのお店は実在するものなので、読んでいて、何だか嬉しくなります。
私が嫌いな、京都を舞台にした某小説では、行った事のあるお店が登場しても、何だか後ろに作者のドヤ顔が透けて見えるようで、何だか不快だったのですが、この作品では、そういう事が全くありません。
それは、私個人の好みもあるのでしょうが、やはり、作者の力量の差もあるのかもしれません。
官能とか恋愛とか、そういうものは置いておいて、読んでいると何だか、「やっぱり男なんて信用するものじゃないわねー。
結局、女同士が一番話がわかるわー」と、思ってしまいました。
商業路線に走ったのか、これまでのような作品が書けなくなったのか、作品としてはレベルダウンした感じだ。
京都のお嬢様大学に入学したうぶな女性が女子寮で先輩に女性の歓びを教えられ、男も知り、次第に性に目覚めるという何とも単純なストーリー。
その初期作品。
桜山女子学園大学、京都にある仏教系「伝統あるお嬢様学校」。
四月、桜が満開の中の入学式。
新入生の水絵は、慣れない靴で急ぐあまりに、坂道で転倒してしまう。
そこに手を差しのべたのは、美しい上級生、日菜子だった。
手続きの不備で入寮が入学式当日となってしまった水絵は、後日、その寮で、日菜子と再会することとなる。
再読月前に読んだ最後が、宮木あや子『あまいゆびさき』とコレもユリ系作品だった。
再読月に時間かけて真藤順丈『宝島』を読み、魂と脳を揺さぶられた。
タイミングが悪いのは、個人的なコトではあるが、ソレを差し引いても、自分の期待する花房観音作品とは、少し趣が異なっていたというのが、第一印象。
まだ、軸足は官能にあった頃の作品。
頁も、言葉も、官能場面に結構費やしてはいるが、女史特有の「情」の重さ、コッテリ感が不足している気が……。
※以下、ネタバレ要素を含みますので、未読の方は、ご注意を……。
第一章~第四章で、時間軸の前後、経過はあるが、四季を巡るような(第二章は厳密に夏とは言い難い部分もあるが)構成。
更に「春」にあたる序章と終章がある。
さらに、序章の前に短い導入があるが、ソレは後程。
第二章以外は基本的に、水絵の視点で描かれている。
しかし、キーパーソン、自分が感情移入し、見ていたのは、圧倒的に日菜子の方。
大好きだった美しい母を摩耗させた、父を、男を、日菜子は忌み嫌うようになったのだろう。
つまりは第三章までの「剛」の日菜子を支え、造っていたのではないか。
一方、導入の最後「母のいない世界は、少女の目には耐えがたい闇でしかなかった」そして、第四章で日菜子に「耐えがたい闇」が迫ったトコロで、日菜子は水絵を見かける。
やがて、「闇」が訪れ、「剛」の日菜子は、最後の手段に出る。
その後、日菜子は「闇」に怯える少女にもどっていく。
彼女の拠り所は、水絵。
そこで、水絵と日菜子の主従逆転(というか、第三章のクライマックス前に水絵が望んだモノに近い関係性)が起こる。
つまりは、先述の導入部は、日菜子の小学校の入学式の場面なのだろう。
終章と呼応するようにしてボカしてあるが、実は、ド頭で語られてるのよね。
そぅ考えると、『一般的価値観に、一矢報いる』花房観音スタイルは、ココでも、健在なのよ。
剃毛の恥辱感や、第三章のクライマックス的官能場面(少し展開的には、出来過ぎ感もあるが)あたりは、団鬼六作品に通じるトコロも感じられた。
そぅ言った意味では、出来れば、現在の経験と、筆力を駆使して、音楽で言うトコの、リミックスやリアレンジをして欲しい一作かもしれない。
『女坂ーver.令和ー 』。
京女生、OGは一読の価値あり!
京都は、実は私にとっては所謂観光ガイドに載ってるようなイメージはあまり無い。
どちらかというと源氏物語に代表されるような人間の愛憎入り混じる地のイメージが強く、そういう意味では何の抵抗もなかった。
全く本題とは関係無いが、涙が浮かんだ一文がある。
『人間ってね、未来を夢見ろとか前向きに生きろとか言われるけど、人間を作っているものは、未来じゃなくて、過去だろ。
過去を忘れることなんて、できない。
だって自分の一部なんだから。
どう折り合いをつけていくかということが重要なんだけど、自分というものを形成しているものを、たやすく忘れたり克服したりなんて、できるはずがない。
それをやれる人がいたとしたら、よっぽど鈍感な人間だ』
むしろ、主人公の2人に関する背景の描写が多い。
もちろん、そこにも性的な描写が描かれていて、それが最もボリュームが大きかった。
個人的にはもっと片方に針が振り切っていた方が好みなので、消化不良になってしまった。
商業路線に走ったのか、これまでのような作品が書けなくなったのか、作品としてはレベルダウンした感じだ。
京都のお嬢様大学に入学したうぶな女性が女子寮で先輩に女性の歓びを教えられ、男も知り、次第に性に目覚めるという何とも単純なストーリー。
拉致られる水絵の彼氏や、水絵が社会人として日菜子と再会を果たす件なんかは、漫画かって突っ込みをいれたくなる。
京都を舞台にしてはいるが、らしさが足らない。
作品中で、ろくでもない男ばかりが登場する、某国立大学も、架空の名称です。
でも、寺社や幾つかのお店は実在するものなので、読んでいて、何だか嬉しくなります。
私が嫌いな、京都を舞台にした某小説では、行った事のあるお店が登場しても、何だか後ろに作者のドヤ顔が透けて見えるようで、何だか不快だったのですが、この作品では、そういう事が全くありません。
それは、私個人の好みもあるのでしょうが、やはり、作者の力量の差もあるのかもしれません。
官能とか恋愛とか、そういうものは置いておいて、読んでいると何だか、「やっぱり男なんて信用するものじゃないわねー。
結局、女同士が一番話がわかるわー」と、思ってしまいました。
京都は、実は私にとっては所謂観光ガイドに載ってるようなイメージはあまり無い。
どちらかというと源氏物語に代表されるような人間の愛憎入り混じる地のイメージが強く、そういう意味では何の抵抗もなかった。
全く本題とは関係無いが、涙が浮かんだ一文がある。
『人間ってね、未来を夢見ろとか前向きに生きろとか言われるけど、人間を作っているものは、未来じゃなくて、過去だろ。
過去を忘れることなんて、できない。
だって自分の一部なんだから。
どう折り合いをつけていくかということが重要なんだけど、自分というものを形成しているものを、たやすく忘れたり克服したりなんて、できるはずがない。
それをやれる人がいたとしたら、よっぽど鈍感な人間だ』
その初期作品。
桜山女子学園大学、京都にある仏教系「伝統あるお嬢様学校」。
四月、桜が満開の中の入学式。
新入生の水絵は、慣れない靴で急ぐあまりに、坂道で転倒してしまう。
そこに手を差しのべたのは、美しい上級生、日菜子だった。
手続きの不備で入寮が入学式当日となってしまった水絵は、後日、その寮で、日菜子と再会することとなる。
再読月前に読んだ最後が、宮木あや子『あまいゆびさき』とコレもユリ系作品だった。
再読月に時間かけて真藤順丈『宝島』を読み、魂と脳を揺さぶられた。
タイミングが悪いのは、個人的なコトではあるが、ソレを差し引いても、自分の期待する花房観音作品とは、少し趣が異なっていたというのが、第一印象。
まだ、軸足は官能にあった頃の作品。
頁も、言葉も、官能場面に結構費やしてはいるが、女史特有の「情」の重さ、コッテリ感が不足している気が……。
※以下、ネタバレ要素を含みますので、未読の方は、ご注意を……。
第一章~第四章で、時間軸の前後、経過はあるが、四季を巡るような(第二章は厳密に夏とは言い難い部分もあるが)構成。
更に「春」にあたる序章と終章がある。
さらに、序章の前に短い導入があるが、ソレは後程。
第二章以外は基本的に、水絵の視点で描かれている。
しかし、キーパーソン、自分が感情移入し、見ていたのは、圧倒的に日菜子の方。
大好きだった美しい母を摩耗させた、父を、男を、日菜子は忌み嫌うようになったのだろう。
つまりは第三章までの「剛」の日菜子を支え、造っていたのではないか。
一方、導入の最後「母のいない世界は、少女の目には耐えがたい闇でしかなかった」そして、第四章で日菜子に「耐えがたい闇」が迫ったトコロで、日菜子は水絵を見かける。
やがて、「闇」が訪れ、「剛」の日菜子は、最後の手段に出る。
その後、日菜子は「闇」に怯える少女にもどっていく。
彼女の拠り所は、水絵。
そこで、水絵と日菜子の主従逆転(というか、第三章のクライマックス前に水絵が望んだモノに近い関係性)が起こる。
つまりは、先述の導入部は、日菜子の小学校の入学式の場面なのだろう。
終章と呼応するようにしてボカしてあるが、実は、ド頭で語られてるのよね。
そぅ考えると、『一般的価値観に、一矢報いる』花房観音スタイルは、ココでも、健在なのよ。
剃毛の恥辱感や、第三章のクライマックス的官能場面(少し展開的には、出来過ぎ感もあるが)あたりは、団鬼六作品に通じるトコロも感じられた。
そぅ言った意味では、出来れば、現在の経験と、筆力を駆使して、音楽で言うトコの、リミックスやリアレンジをして欲しい一作かもしれない。
『女坂ーver.令和ー 』。
商業路線に走ったのか、これまでのような作品が書けなくなったのか、作品としてはレベルダウンした感じだ。
京都のお嬢様大学に入学したうぶな女性が女子寮で先輩に女性の歓びを教えられ、男も知り、次第に性に目覚めるという何とも単純なストーリー。
拉致られる水絵の彼氏や、水絵が社会人として日菜子と再会を果たす件なんかは、漫画かって突っ込みをいれたくなる。
京都を舞台にしてはいるが、らしさが足らない。
京女生、OGは一読の価値あり!
作品中で、ろくでもない男ばかりが登場する、某国立大学も、架空の名称です。
でも、寺社や幾つかのお店は実在するものなので、読んでいて、何だか嬉しくなります。
私が嫌いな、京都を舞台にした某小説では、行った事のあるお店が登場しても、何だか後ろに作者のドヤ顔が透けて見えるようで、何だか不快だったのですが、この作品では、そういう事が全くありません。
それは、私個人の好みもあるのでしょうが、やはり、作者の力量の差もあるのかもしれません。
官能とか恋愛とか、そういうものは置いておいて、読んでいると何だか、「やっぱり男なんて信用するものじゃないわねー。
結局、女同士が一番話がわかるわー」と、思ってしまいました。
むしろ、主人公の2人に関する背景の描写が多い。
もちろん、そこにも性的な描写が描かれていて、それが最もボリュームが大きかった。
個人的にはもっと片方に針が振り切っていた方が好みなので、消化不良になってしまった。
その初期作品。
桜山女子学園大学、京都にある仏教系「伝統あるお嬢様学校」。
四月、桜が満開の中の入学式。
新入生の水絵は、慣れない靴で急ぐあまりに、坂道で転倒してしまう。
そこに手を差しのべたのは、美しい上級生、日菜子だった。
手続きの不備で入寮が入学式当日となってしまった水絵は、後日、その寮で、日菜子と再会することとなる。
再読月前に読んだ最後が、宮木あや子『あまいゆびさき』とコレもユリ系作品だった。
再読月に時間かけて真藤順丈『宝島』を読み、魂と脳を揺さぶられた。
タイミングが悪いのは、個人的なコトではあるが、ソレを差し引いても、自分の期待する花房観音作品とは、少し趣が異なっていたというのが、第一印象。
まだ、軸足は官能にあった頃の作品。
頁も、言葉も、官能場面に結構費やしてはいるが、女史特有の「情」の重さ、コッテリ感が不足している気が……。
※以下、ネタバレ要素を含みますので、未読の方は、ご注意を……。
第一章~第四章で、時間軸の前後、経過はあるが、四季を巡るような(第二章は厳密に夏とは言い難い部分もあるが)構成。
更に「春」にあたる序章と終章がある。
さらに、序章の前に短い導入があるが、ソレは後程。
第二章以外は基本的に、水絵の視点で描かれている。
しかし、キーパーソン、自分が感情移入し、見ていたのは、圧倒的に日菜子の方。
大好きだった美しい母を摩耗させた、父を、男を、日菜子は忌み嫌うようになったのだろう。
つまりは第三章までの「剛」の日菜子を支え、造っていたのではないか。
一方、導入の最後「母のいない世界は、少女の目には耐えがたい闇でしかなかった」そして、第四章で日菜子に「耐えがたい闇」が迫ったトコロで、日菜子は水絵を見かける。
やがて、「闇」が訪れ、「剛」の日菜子は、最後の手段に出る。
その後、日菜子は「闇」に怯える少女にもどっていく。
彼女の拠り所は、水絵。
そこで、水絵と日菜子の主従逆転(というか、第三章のクライマックス前に水絵が望んだモノに近い関係性)が起こる。
つまりは、先述の導入部は、日菜子の小学校の入学式の場面なのだろう。
終章と呼応するようにしてボカしてあるが、実は、ド頭で語られてるのよね。
そぅ考えると、『一般的価値観に、一矢報いる』花房観音スタイルは、ココでも、健在なのよ。
剃毛の恥辱感や、第三章のクライマックス的官能場面(少し展開的には、出来過ぎ感もあるが)あたりは、団鬼六作品に通じるトコロも感じられた。
そぅ言った意味では、出来れば、現在の経験と、筆力を駆使して、音楽で言うトコの、リミックスやリアレンジをして欲しい一作かもしれない。
『女坂ーver.令和ー 』。
商業路線に走ったのか、これまでのような作品が書けなくなったのか、作品としてはレベルダウンした感じだ。
京都のお嬢様大学に入学したうぶな女性が女子寮で先輩に女性の歓びを教えられ、男も知り、次第に性に目覚めるという何とも単純なストーリー。
作品中で、ろくでもない男ばかりが登場する、某国立大学も、架空の名称です。
でも、寺社や幾つかのお店は実在するものなので、読んでいて、何だか嬉しくなります。
私が嫌いな、京都を舞台にした某小説では、行った事のあるお店が登場しても、何だか後ろに作者のドヤ顔が透けて見えるようで、何だか不快だったのですが、この作品では、そういう事が全くありません。
それは、私個人の好みもあるのでしょうが、やはり、作者の力量の差もあるのかもしれません。
官能とか恋愛とか、そういうものは置いておいて、読んでいると何だか、「やっぱり男なんて信用するものじゃないわねー。
結局、女同士が一番話がわかるわー」と、思ってしまいました。
京都は、実は私にとっては所謂観光ガイドに載ってるようなイメージはあまり無い。
どちらかというと源氏物語に代表されるような人間の愛憎入り混じる地のイメージが強く、そういう意味では何の抵抗もなかった。
全く本題とは関係無いが、涙が浮かんだ一文がある。
『人間ってね、未来を夢見ろとか前向きに生きろとか言われるけど、人間を作っているものは、未来じゃなくて、過去だろ。
過去を忘れることなんて、できない。
だって自分の一部なんだから。
どう折り合いをつけていくかということが重要なんだけど、自分というものを形成しているものを、たやすく忘れたり克服したりなんて、できるはずがない。
それをやれる人がいたとしたら、よっぽど鈍感な人間だ』
京女生、OGは一読の価値あり!
むしろ、主人公の2人に関する背景の描写が多い。
もちろん、そこにも性的な描写が描かれていて、それが最もボリュームが大きかった。
個人的にはもっと片方に針が振り切っていた方が好みなので、消化不良になってしまった。
拉致られる水絵の彼氏や、水絵が社会人として日菜子と再会を果たす件なんかは、漫画かって突っ込みをいれたくなる。
京都を舞台にしてはいるが、らしさが足らない。
京都は、実は私にとっては所謂観光ガイドに載ってるようなイメージはあまり無い。
どちらかというと源氏物語に代表されるような人間の愛憎入り混じる地のイメージが強く、そういう意味では何の抵抗もなかった。
全く本題とは関係無いが、涙が浮かんだ一文がある。
『人間ってね、未来を夢見ろとか前向きに生きろとか言われるけど、人間を作っているものは、未来じゃなくて、過去だろ。
過去を忘れることなんて、できない。
だって自分の一部なんだから。
どう折り合いをつけていくかということが重要なんだけど、自分というものを形成しているものを、たやすく忘れたり克服したりなんて、できるはずがない。
それをやれる人がいたとしたら、よっぽど鈍感な人間だ』
商業路線に走ったのか、これまでのような作品が書けなくなったのか、作品としてはレベルダウンした感じだ。
京都のお嬢様大学に入学したうぶな女性が女子寮で先輩に女性の歓びを教えられ、男も知り、次第に性に目覚めるという何とも単純なストーリー。
むしろ、主人公の2人に関する背景の描写が多い。
もちろん、そこにも性的な描写が描かれていて、それが最もボリュームが大きかった。
個人的にはもっと片方に針が振り切っていた方が好みなので、消化不良になってしまった。
京女生、OGは一読の価値あり!
その初期作品。
桜山女子学園大学、京都にある仏教系「伝統あるお嬢様学校」。
四月、桜が満開の中の入学式。
新入生の水絵は、慣れない靴で急ぐあまりに、坂道で転倒してしまう。
そこに手を差しのべたのは、美しい上級生、日菜子だった。
手続きの不備で入寮が入学式当日となってしまった水絵は、後日、その寮で、日菜子と再会することとなる。
再読月前に読んだ最後が、宮木あや子『あまいゆびさき』とコレもユリ系作品だった。
再読月に時間かけて真藤順丈『宝島』を読み、魂と脳を揺さぶられた。
タイミングが悪いのは、個人的なコトではあるが、ソレを差し引いても、自分の期待する花房観音作品とは、少し趣が異なっていたというのが、第一印象。
まだ、軸足は官能にあった頃の作品。
頁も、言葉も、官能場面に結構費やしてはいるが、女史特有の「情」の重さ、コッテリ感が不足している気が……。
※以下、ネタバレ要素を含みますので、未読の方は、ご注意を……。
第一章~第四章で、時間軸の前後、経過はあるが、四季を巡るような(第二章は厳密に夏とは言い難い部分もあるが)構成。
更に「春」にあたる序章と終章がある。
さらに、序章の前に短い導入があるが、ソレは後程。
第二章以外は基本的に、水絵の視点で描かれている。
しかし、キーパーソン、自分が感情移入し、見ていたのは、圧倒的に日菜子の方。
大好きだった美しい母を摩耗させた、父を、男を、日菜子は忌み嫌うようになったのだろう。
つまりは第三章までの「剛」の日菜子を支え、造っていたのではないか。
一方、導入の最後「母のいない世界は、少女の目には耐えがたい闇でしかなかった」そして、第四章で日菜子に「耐えがたい闇」が迫ったトコロで、日菜子は水絵を見かける。
やがて、「闇」が訪れ、「剛」の日菜子は、最後の手段に出る。
その後、日菜子は「闇」に怯える少女にもどっていく。
彼女の拠り所は、水絵。
そこで、水絵と日菜子の主従逆転(というか、第三章のクライマックス前に水絵が望んだモノに近い関係性)が起こる。
つまりは、先述の導入部は、日菜子の小学校の入学式の場面なのだろう。
終章と呼応するようにしてボカしてあるが、実は、ド頭で語られてるのよね。
そぅ考えると、『一般的価値観に、一矢報いる』花房観音スタイルは、ココでも、健在なのよ。
剃毛の恥辱感や、第三章のクライマックス的官能場面(少し展開的には、出来過ぎ感もあるが)あたりは、団鬼六作品に通じるトコロも感じられた。
そぅ言った意味では、出来れば、現在の経験と、筆力を駆使して、音楽で言うトコの、リミックスやリアレンジをして欲しい一作かもしれない。
『女坂ーver.令和ー 』。
拉致られる水絵の彼氏や、水絵が社会人として日菜子と再会を果たす件なんかは、漫画かって突っ込みをいれたくなる。
京都を舞台にしてはいるが、らしさが足らない。
作品中で、ろくでもない男ばかりが登場する、某国立大学も、架空の名称です。
でも、寺社や幾つかのお店は実在するものなので、読んでいて、何だか嬉しくなります。
私が嫌いな、京都を舞台にした某小説では、行った事のあるお店が登場しても、何だか後ろに作者のドヤ顔が透けて見えるようで、何だか不快だったのですが、この作品では、そういう事が全くありません。
それは、私個人の好みもあるのでしょうが、やはり、作者の力量の差もあるのかもしれません。
官能とか恋愛とか、そういうものは置いておいて、読んでいると何だか、「やっぱり男なんて信用するものじゃないわねー。
結局、女同士が一番話がわかるわー」と、思ってしまいました。
商業路線に走ったのか、これまでのような作品が書けなくなったのか、作品としてはレベルダウンした感じだ。
京都のお嬢様大学に入学したうぶな女性が女子寮で先輩に女性の歓びを教えられ、男も知り、次第に性に目覚めるという何とも単純なストーリー。
作品中で、ろくでもない男ばかりが登場する、某国立大学も、架空の名称です。
でも、寺社や幾つかのお店は実在するものなので、読んでいて、何だか嬉しくなります。
私が嫌いな、京都を舞台にした某小説では、行った事のあるお店が登場しても、何だか後ろに作者のドヤ顔が透けて見えるようで、何だか不快だったのですが、この作品では、そういう事が全くありません。
それは、私個人の好みもあるのでしょうが、やはり、作者の力量の差もあるのかもしれません。
官能とか恋愛とか、そういうものは置いておいて、読んでいると何だか、「やっぱり男なんて信用するものじゃないわねー。
結局、女同士が一番話がわかるわー」と、思ってしまいました。
京都は、実は私にとっては所謂観光ガイドに載ってるようなイメージはあまり無い。
どちらかというと源氏物語に代表されるような人間の愛憎入り混じる地のイメージが強く、そういう意味では何の抵抗もなかった。
全く本題とは関係無いが、涙が浮かんだ一文がある。
『人間ってね、未来を夢見ろとか前向きに生きろとか言われるけど、人間を作っているものは、未来じゃなくて、過去だろ。
過去を忘れることなんて、できない。
だって自分の一部なんだから。
どう折り合いをつけていくかということが重要なんだけど、自分というものを形成しているものを、たやすく忘れたり克服したりなんて、できるはずがない。
それをやれる人がいたとしたら、よっぽど鈍感な人間だ』
京女生、OGは一読の価値あり!
拉致られる水絵の彼氏や、水絵が社会人として日菜子と再会を果たす件なんかは、漫画かって突っ込みをいれたくなる。
京都を舞台にしてはいるが、らしさが足らない。
その初期作品。
桜山女子学園大学、京都にある仏教系「伝統あるお嬢様学校」。
四月、桜が満開の中の入学式。
新入生の水絵は、慣れない靴で急ぐあまりに、坂道で転倒してしまう。
そこに手を差しのべたのは、美しい上級生、日菜子だった。
手続きの不備で入寮が入学式当日となってしまった水絵は、後日、その寮で、日菜子と再会することとなる。
再読月前に読んだ最後が、宮木あや子『あまいゆびさき』とコレもユリ系作品だった。
再読月に時間かけて真藤順丈『宝島』を読み、魂と脳を揺さぶられた。
タイミングが悪いのは、個人的なコトではあるが、ソレを差し引いても、自分の期待する花房観音作品とは、少し趣が異なっていたというのが、第一印象。
まだ、軸足は官能にあった頃の作品。
頁も、言葉も、官能場面に結構費やしてはいるが、女史特有の「情」の重さ、コッテリ感が不足している気が……。
※以下、ネタバレ要素を含みますので、未読の方は、ご注意を……。
第一章~第四章で、時間軸の前後、経過はあるが、四季を巡るような(第二章は厳密に夏とは言い難い部分もあるが)構成。
更に「春」にあたる序章と終章がある。
さらに、序章の前に短い導入があるが、ソレは後程。
第二章以外は基本的に、水絵の視点で描かれている。
しかし、キーパーソン、自分が感情移入し、見ていたのは、圧倒的に日菜子の方。
大好きだった美しい母を摩耗させた、父を、男を、日菜子は忌み嫌うようになったのだろう。
つまりは第三章までの「剛」の日菜子を支え、造っていたのではないか。
一方、導入の最後「母のいない世界は、少女の目には耐えがたい闇でしかなかった」そして、第四章で日菜子に「耐えがたい闇」が迫ったトコロで、日菜子は水絵を見かける。
やがて、「闇」が訪れ、「剛」の日菜子は、最後の手段に出る。
その後、日菜子は「闇」に怯える少女にもどっていく。
彼女の拠り所は、水絵。
そこで、水絵と日菜子の主従逆転(というか、第三章のクライマックス前に水絵が望んだモノに近い関係性)が起こる。
つまりは、先述の導入部は、日菜子の小学校の入学式の場面なのだろう。
終章と呼応するようにしてボカしてあるが、実は、ド頭で語られてるのよね。
そぅ考えると、『一般的価値観に、一矢報いる』花房観音スタイルは、ココでも、健在なのよ。
剃毛の恥辱感や、第三章のクライマックス的官能場面(少し展開的には、出来過ぎ感もあるが)あたりは、団鬼六作品に通じるトコロも感じられた。
そぅ言った意味では、出来れば、現在の経験と、筆力を駆使して、音楽で言うトコの、リミックスやリアレンジをして欲しい一作かもしれない。
『女坂ーver.令和ー 』。
むしろ、主人公の2人に関する背景の描写が多い。
もちろん、そこにも性的な描写が描かれていて、それが最もボリュームが大きかった。
個人的にはもっと片方に針が振り切っていた方が好みなので、消化不良になってしまった。
京都は、実は私にとっては所謂観光ガイドに載ってるようなイメージはあまり無い。
どちらかというと源氏物語に代表されるような人間の愛憎入り混じる地のイメージが強く、そういう意味では何の抵抗もなかった。
全く本題とは関係無いが、涙が浮かんだ一文がある。
『人間ってね、未来を夢見ろとか前向きに生きろとか言われるけど、人間を作っているものは、未来じゃなくて、過去だろ。
過去を忘れることなんて、できない。
だって自分の一部なんだから。
どう折り合いをつけていくかということが重要なんだけど、自分というものを形成しているものを、たやすく忘れたり克服したりなんて、できるはずがない。
それをやれる人がいたとしたら、よっぽど鈍感な人間だ』
作品中で、ろくでもない男ばかりが登場する、某国立大学も、架空の名称です。
でも、寺社や幾つかのお店は実在するものなので、読んでいて、何だか嬉しくなります。
私が嫌いな、京都を舞台にした某小説では、行った事のあるお店が登場しても、何だか後ろに作者のドヤ顔が透けて見えるようで、何だか不快だったのですが、この作品では、そういう事が全くありません。
それは、私個人の好みもあるのでしょうが、やはり、作者の力量の差もあるのかもしれません。
官能とか恋愛とか、そういうものは置いておいて、読んでいると何だか、「やっぱり男なんて信用するものじゃないわねー。
結局、女同士が一番話がわかるわー」と、思ってしまいました。
拉致られる水絵の彼氏や、水絵が社会人として日菜子と再会を果たす件なんかは、漫画かって突っ込みをいれたくなる。
京都を舞台にしてはいるが、らしさが足らない。
むしろ、主人公の2人に関する背景の描写が多い。
もちろん、そこにも性的な描写が描かれていて、それが最もボリュームが大きかった。
個人的にはもっと片方に針が振り切っていた方が好みなので、消化不良になってしまった。
京女生、OGは一読の価値あり!
商業路線に走ったのか、これまでのような作品が書けなくなったのか、作品としてはレベルダウンした感じだ。
京都のお嬢様大学に入学したうぶな女性が女子寮で先輩に女性の歓びを教えられ、男も知り、次第に性に目覚めるという何とも単純なストーリー。
その初期作品。
桜山女子学園大学、京都にある仏教系「伝統あるお嬢様学校」。
四月、桜が満開の中の入学式。
新入生の水絵は、慣れない靴で急ぐあまりに、坂道で転倒してしまう。
そこに手を差しのべたのは、美しい上級生、日菜子だった。
手続きの不備で入寮が入学式当日となってしまった水絵は、後日、その寮で、日菜子と再会することとなる。
再読月前に読んだ最後が、宮木あや子『あまいゆびさき』とコレもユリ系作品だった。
再読月に時間かけて真藤順丈『宝島』を読み、魂と脳を揺さぶられた。
タイミングが悪いのは、個人的なコトではあるが、ソレを差し引いても、自分の期待する花房観音作品とは、少し趣が異なっていたというのが、第一印象。
まだ、軸足は官能にあった頃の作品。
頁も、言葉も、官能場面に結構費やしてはいるが、女史特有の「情」の重さ、コッテリ感が不足している気が……。
※以下、ネタバレ要素を含みますので、未読の方は、ご注意を……。
第一章~第四章で、時間軸の前後、経過はあるが、四季を巡るような(第二章は厳密に夏とは言い難い部分もあるが)構成。
更に「春」にあたる序章と終章がある。
さらに、序章の前に短い導入があるが、ソレは後程。
第二章以外は基本的に、水絵の視点で描かれている。
しかし、キーパーソン、自分が感情移入し、見ていたのは、圧倒的に日菜子の方。
大好きだった美しい母を摩耗させた、父を、男を、日菜子は忌み嫌うようになったのだろう。
つまりは第三章までの「剛」の日菜子を支え、造っていたのではないか。
一方、導入の最後「母のいない世界は、少女の目には耐えがたい闇でしかなかった」そして、第四章で日菜子に「耐えがたい闇」が迫ったトコロで、日菜子は水絵を見かける。
やがて、「闇」が訪れ、「剛」の日菜子は、最後の手段に出る。
その後、日菜子は「闇」に怯える少女にもどっていく。
彼女の拠り所は、水絵。
そこで、水絵と日菜子の主従逆転(というか、第三章のクライマックス前に水絵が望んだモノに近い関係性)が起こる。
つまりは、先述の導入部は、日菜子の小学校の入学式の場面なのだろう。
終章と呼応するようにしてボカしてあるが、実は、ド頭で語られてるのよね。
そぅ考えると、『一般的価値観に、一矢報いる』花房観音スタイルは、ココでも、健在なのよ。
剃毛の恥辱感や、第三章のクライマックス的官能場面(少し展開的には、出来過ぎ感もあるが)あたりは、団鬼六作品に通じるトコロも感じられた。
そぅ言った意味では、出来れば、現在の経験と、筆力を駆使して、音楽で言うトコの、リミックスやリアレンジをして欲しい一作かもしれない。
『女坂ーver.令和ー 』。
拉致られる水絵の彼氏や、水絵が社会人として日菜子と再会を果たす件なんかは、漫画かって突っ込みをいれたくなる。
京都を舞台にしてはいるが、らしさが足らない。
作品中で、ろくでもない男ばかりが登場する、某国立大学も、架空の名称です。
でも、寺社や幾つかのお店は実在するものなので、読んでいて、何だか嬉しくなります。
私が嫌いな、京都を舞台にした某小説では、行った事のあるお店が登場しても、何だか後ろに作者のドヤ顔が透けて見えるようで、何だか不快だったのですが、この作品では、そういう事が全くありません。
それは、私個人の好みもあるのでしょうが、やはり、作者の力量の差もあるのかもしれません。
官能とか恋愛とか、そういうものは置いておいて、読んでいると何だか、「やっぱり男なんて信用するものじゃないわねー。
結局、女同士が一番話がわかるわー」と、思ってしまいました。
京女生、OGは一読の価値あり!
商業路線に走ったのか、これまでのような作品が書けなくなったのか、作品としてはレベルダウンした感じだ。
京都のお嬢様大学に入学したうぶな女性が女子寮で先輩に女性の歓びを教えられ、男も知り、次第に性に目覚めるという何とも単純なストーリー。
その初期作品。
桜山女子学園大学、京都にある仏教系「伝統あるお嬢様学校」。
四月、桜が満開の中の入学式。
新入生の水絵は、慣れない靴で急ぐあまりに、坂道で転倒してしまう。
そこに手を差しのべたのは、美しい上級生、日菜子だった。
手続きの不備で入寮が入学式当日となってしまった水絵は、後日、その寮で、日菜子と再会することとなる。
再読月前に読んだ最後が、宮木あや子『あまいゆびさき』とコレもユリ系作品だった。
再読月に時間かけて真藤順丈『宝島』を読み、魂と脳を揺さぶられた。
タイミングが悪いのは、個人的なコトではあるが、ソレを差し引いても、自分の期待する花房観音作品とは、少し趣が異なっていたというのが、第一印象。
まだ、軸足は官能にあった頃の作品。
頁も、言葉も、官能場面に結構費やしてはいるが、女史特有の「情」の重さ、コッテリ感が不足している気が……。
※以下、ネタバレ要素を含みますので、未読の方は、ご注意を……。
第一章~第四章で、時間軸の前後、経過はあるが、四季を巡るような(第二章は厳密に夏とは言い難い部分もあるが)構成。
更に「春」にあたる序章と終章がある。
さらに、序章の前に短い導入があるが、ソレは後程。
第二章以外は基本的に、水絵の視点で描かれている。
しかし、キーパーソン、自分が感情移入し、見ていたのは、圧倒的に日菜子の方。
大好きだった美しい母を摩耗させた、父を、男を、日菜子は忌み嫌うようになったのだろう。
つまりは第三章までの「剛」の日菜子を支え、造っていたのではないか。
一方、導入の最後「母のいない世界は、少女の目には耐えがたい闇でしかなかった」そして、第四章で日菜子に「耐えがたい闇」が迫ったトコロで、日菜子は水絵を見かける。
やがて、「闇」が訪れ、「剛」の日菜子は、最後の手段に出る。
その後、日菜子は「闇」に怯える少女にもどっていく。
彼女の拠り所は、水絵。
そこで、水絵と日菜子の主従逆転(というか、第三章のクライマックス前に水絵が望んだモノに近い関係性)が起こる。
つまりは、先述の導入部は、日菜子の小学校の入学式の場面なのだろう。
終章と呼応するようにしてボカしてあるが、実は、ド頭で語られてるのよね。
そぅ考えると、『一般的価値観に、一矢報いる』花房観音スタイルは、ココでも、健在なのよ。
剃毛の恥辱感や、第三章のクライマックス的官能場面(少し展開的には、出来過ぎ感もあるが)あたりは、団鬼六作品に通じるトコロも感じられた。
そぅ言った意味では、出来れば、現在の経験と、筆力を駆使して、音楽で言うトコの、リミックスやリアレンジをして欲しい一作かもしれない。
『女坂ーver.令和ー 』。
京都は、実は私にとっては所謂観光ガイドに載ってるようなイメージはあまり無い。
どちらかというと源氏物語に代表されるような人間の愛憎入り混じる地のイメージが強く、そういう意味では何の抵抗もなかった。
全く本題とは関係無いが、涙が浮かんだ一文がある。
『人間ってね、未来を夢見ろとか前向きに生きろとか言われるけど、人間を作っているものは、未来じゃなくて、過去だろ。
過去を忘れることなんて、できない。
だって自分の一部なんだから。
どう折り合いをつけていくかということが重要なんだけど、自分というものを形成しているものを、たやすく忘れたり克服したりなんて、できるはずがない。
それをやれる人がいたとしたら、よっぽど鈍感な人間だ』
むしろ、主人公の2人に関する背景の描写が多い。
もちろん、そこにも性的な描写が描かれていて、それが最もボリュームが大きかった。
個人的にはもっと片方に針が振り切っていた方が好みなので、消化不良になってしまった。
作品中で、ろくでもない男ばかりが登場する、某国立大学も、架空の名称です。
でも、寺社や幾つかのお店は実在するものなので、読んでいて、何だか嬉しくなります。
私が嫌いな、京都を舞台にした某小説では、行った事のあるお店が登場しても、何だか後ろに作者のドヤ顔が透けて見えるようで、何だか不快だったのですが、この作品では、そういう事が全くありません。
それは、私個人の好みもあるのでしょうが、やはり、作者の力量の差もあるのかもしれません。
官能とか恋愛とか、そういうものは置いておいて、読んでいると何だか、「やっぱり男なんて信用するものじゃないわねー。
結局、女同士が一番話がわかるわー」と、思ってしまいました。
商業路線に走ったのか、これまでのような作品が書けなくなったのか、作品としてはレベルダウンした感じだ。
京都のお嬢様大学に入学したうぶな女性が女子寮で先輩に女性の歓びを教えられ、男も知り、次第に性に目覚めるという何とも単純なストーリー。
京女生、OGは一読の価値あり!
むしろ、主人公の2人に関する背景の描写が多い。
もちろん、そこにも性的な描写が描かれていて、それが最もボリュームが大きかった。
個人的にはもっと片方に針が振り切っていた方が好みなので、消化不良になってしまった。
拉致られる水絵の彼氏や、水絵が社会人として日菜子と再会を果たす件なんかは、漫画かって突っ込みをいれたくなる。
京都を舞台にしてはいるが、らしさが足らない。
その初期作品。
桜山女子学園大学、京都にある仏教系「伝統あるお嬢様学校」。
四月、桜が満開の中の入学式。
新入生の水絵は、慣れない靴で急ぐあまりに、坂道で転倒してしまう。
そこに手を差しのべたのは、美しい上級生、日菜子だった。
手続きの不備で入寮が入学式当日となってしまった水絵は、後日、その寮で、日菜子と再会することとなる。
再読月前に読んだ最後が、宮木あや子『あまいゆびさき』とコレもユリ系作品だった。
再読月に時間かけて真藤順丈『宝島』を読み、魂と脳を揺さぶられた。
タイミングが悪いのは、個人的なコトではあるが、ソレを差し引いても、自分の期待する花房観音作品とは、少し趣が異なっていたというのが、第一印象。
まだ、軸足は官能にあった頃の作品。
頁も、言葉も、官能場面に結構費やしてはいるが、女史特有の「情」の重さ、コッテリ感が不足している気が……。
※以下、ネタバレ要素を含みますので、未読の方は、ご注意を……。
第一章~第四章で、時間軸の前後、経過はあるが、四季を巡るような(第二章は厳密に夏とは言い難い部分もあるが)構成。
更に「春」にあたる序章と終章がある。
さらに、序章の前に短い導入があるが、ソレは後程。
第二章以外は基本的に、水絵の視点で描かれている。
しかし、キーパーソン、自分が感情移入し、見ていたのは、圧倒的に日菜子の方。
大好きだった美しい母を摩耗させた、父を、男を、日菜子は忌み嫌うようになったのだろう。
つまりは第三章までの「剛」の日菜子を支え、造っていたのではないか。
一方、導入の最後「母のいない世界は、少女の目には耐えがたい闇でしかなかった」そして、第四章で日菜子に「耐えがたい闇」が迫ったトコロで、日菜子は水絵を見かける。
やがて、「闇」が訪れ、「剛」の日菜子は、最後の手段に出る。
その後、日菜子は「闇」に怯える少女にもどっていく。
彼女の拠り所は、水絵。
そこで、水絵と日菜子の主従逆転(というか、第三章のクライマックス前に水絵が望んだモノに近い関係性)が起こる。
つまりは、先述の導入部は、日菜子の小学校の入学式の場面なのだろう。
終章と呼応するようにしてボカしてあるが、実は、ド頭で語られてるのよね。
そぅ考えると、『一般的価値観に、一矢報いる』花房観音スタイルは、ココでも、健在なのよ。
剃毛の恥辱感や、第三章のクライマックス的官能場面(少し展開的には、出来過ぎ感もあるが)あたりは、団鬼六作品に通じるトコロも感じられた。
そぅ言った意味では、出来れば、現在の経験と、筆力を駆使して、音楽で言うトコの、リミックスやリアレンジをして欲しい一作かもしれない。
『女坂ーver.令和ー 』。
京都は、実は私にとっては所謂観光ガイドに載ってるようなイメージはあまり無い。
どちらかというと源氏物語に代表されるような人間の愛憎入り混じる地のイメージが強く、そういう意味では何の抵抗もなかった。
全く本題とは関係無いが、涙が浮かんだ一文がある。
『人間ってね、未来を夢見ろとか前向きに生きろとか言われるけど、人間を作っているものは、未来じゃなくて、過去だろ。
過去を忘れることなんて、できない。
だって自分の一部なんだから。
どう折り合いをつけていくかということが重要なんだけど、自分というものを形成しているものを、たやすく忘れたり克服したりなんて、できるはずがない。
それをやれる人がいたとしたら、よっぽど鈍感な人間だ』
むしろ、主人公の2人に関する背景の描写が多い。
もちろん、そこにも性的な描写が描かれていて、それが最もボリュームが大きかった。
個人的にはもっと片方に針が振り切っていた方が好みなので、消化不良になってしまった。
作品中で、ろくでもない男ばかりが登場する、某国立大学も、架空の名称です。
でも、寺社や幾つかのお店は実在するものなので、読んでいて、何だか嬉しくなります。
私が嫌いな、京都を舞台にした某小説では、行った事のあるお店が登場しても、何だか後ろに作者のドヤ顔が透けて見えるようで、何だか不快だったのですが、この作品では、そういう事が全くありません。
それは、私個人の好みもあるのでしょうが、やはり、作者の力量の差もあるのかもしれません。
官能とか恋愛とか、そういうものは置いておいて、読んでいると何だか、「やっぱり男なんて信用するものじゃないわねー。
結局、女同士が一番話がわかるわー」と、思ってしまいました。
拉致られる水絵の彼氏や、水絵が社会人として日菜子と再会を果たす件なんかは、漫画かって突っ込みをいれたくなる。
京都を舞台にしてはいるが、らしさが足らない。
拉致られる水絵の彼氏や、水絵が社会人として日菜子と再会を果たす件なんかは、漫画かって突っ込みをいれたくなる。
京都を舞台にしてはいるが、らしさが足らない。
京都は、実は私にとっては所謂観光ガイドに載ってるようなイメージはあまり無い。
どちらかというと源氏物語に代表されるような人間の愛憎入り混じる地のイメージが強く、そういう意味では何の抵抗もなかった。
全く本題とは関係無いが、涙が浮かんだ一文がある。
『人間ってね、未来を夢見ろとか前向きに生きろとか言われるけど、人間を作っているものは、未来じゃなくて、過去だろ。
過去を忘れることなんて、できない。
だって自分の一部なんだから。
どう折り合いをつけていくかということが重要なんだけど、自分というものを形成しているものを、たやすく忘れたり克服したりなんて、できるはずがない。
それをやれる人がいたとしたら、よっぽど鈍感な人間だ』
その初期作品。
桜山女子学園大学、京都にある仏教系「伝統あるお嬢様学校」。
四月、桜が満開の中の入学式。
新入生の水絵は、慣れない靴で急ぐあまりに、坂道で転倒してしまう。
そこに手を差しのべたのは、美しい上級生、日菜子だった。
手続きの不備で入寮が入学式当日となってしまった水絵は、後日、その寮で、日菜子と再会することとなる。
再読月前に読んだ最後が、宮木あや子『あまいゆびさき』とコレもユリ系作品だった。
再読月に時間かけて真藤順丈『宝島』を読み、魂と脳を揺さぶられた。
タイミングが悪いのは、個人的なコトではあるが、ソレを差し引いても、自分の期待する花房観音作品とは、少し趣が異なっていたというのが、第一印象。
まだ、軸足は官能にあった頃の作品。
頁も、言葉も、官能場面に結構費やしてはいるが、女史特有の「情」の重さ、コッテリ感が不足している気が……。
※以下、ネタバレ要素を含みますので、未読の方は、ご注意を……。
第一章~第四章で、時間軸の前後、経過はあるが、四季を巡るような(第二章は厳密に夏とは言い難い部分もあるが)構成。
更に「春」にあたる序章と終章がある。
さらに、序章の前に短い導入があるが、ソレは後程。
第二章以外は基本的に、水絵の視点で描かれている。
しかし、キーパーソン、自分が感情移入し、見ていたのは、圧倒的に日菜子の方。
大好きだった美しい母を摩耗させた、父を、男を、日菜子は忌み嫌うようになったのだろう。
つまりは第三章までの「剛」の日菜子を支え、造っていたのではないか。
一方、導入の最後「母のいない世界は、少女の目には耐えがたい闇でしかなかった」そして、第四章で日菜子に「耐えがたい闇」が迫ったトコロで、日菜子は水絵を見かける。
やがて、「闇」が訪れ、「剛」の日菜子は、最後の手段に出る。
その後、日菜子は「闇」に怯える少女にもどっていく。
彼女の拠り所は、水絵。
そこで、水絵と日菜子の主従逆転(というか、第三章のクライマックス前に水絵が望んだモノに近い関係性)が起こる。
つまりは、先述の導入部は、日菜子の小学校の入学式の場面なのだろう。
終章と呼応するようにしてボカしてあるが、実は、ド頭で語られてるのよね。
そぅ考えると、『一般的価値観に、一矢報いる』花房観音スタイルは、ココでも、健在なのよ。
剃毛の恥辱感や、第三章のクライマックス的官能場面(少し展開的には、出来過ぎ感もあるが)あたりは、団鬼六作品に通じるトコロも感じられた。
そぅ言った意味では、出来れば、現在の経験と、筆力を駆使して、音楽で言うトコの、リミックスやリアレンジをして欲しい一作かもしれない。
『女坂ーver.令和ー 』。
京女生、OGは一読の価値あり!
商業路線に走ったのか、これまでのような作品が書けなくなったのか、作品としてはレベルダウンした感じだ。
京都のお嬢様大学に入学したうぶな女性が女子寮で先輩に女性の歓びを教えられ、男も知り、次第に性に目覚めるという何とも単純なストーリー。
京都は、実は私にとっては所謂観光ガイドに載ってるようなイメージはあまり無い。
どちらかというと源氏物語に代表されるような人間の愛憎入り混じる地のイメージが強く、そういう意味では何の抵抗もなかった。
全く本題とは関係無いが、涙が浮かんだ一文がある。
『人間ってね、未来を夢見ろとか前向きに生きろとか言われるけど、人間を作っているものは、未来じゃなくて、過去だろ。
過去を忘れることなんて、できない。
だって自分の一部なんだから。
どう折り合いをつけていくかということが重要なんだけど、自分というものを形成しているものを、たやすく忘れたり克服したりなんて、できるはずがない。
それをやれる人がいたとしたら、よっぽど鈍感な人間だ』
商業路線に走ったのか、これまでのような作品が書けなくなったのか、作品としてはレベルダウンした感じだ。
京都のお嬢様大学に入学したうぶな女性が女子寮で先輩に女性の歓びを教えられ、男も知り、次第に性に目覚めるという何とも単純なストーリー。
作品中で、ろくでもない男ばかりが登場する、某国立大学も、架空の名称です。
でも、寺社や幾つかのお店は実在するものなので、読んでいて、何だか嬉しくなります。
私が嫌いな、京都を舞台にした某小説では、行った事のあるお店が登場しても、何だか後ろに作者のドヤ顔が透けて見えるようで、何だか不快だったのですが、この作品では、そういう事が全くありません。
それは、私個人の好みもあるのでしょうが、やはり、作者の力量の差もあるのかもしれません。
官能とか恋愛とか、そういうものは置いておいて、読んでいると何だか、「やっぱり男なんて信用するものじゃないわねー。
結局、女同士が一番話がわかるわー」と、思ってしまいました。
その初期作品。
桜山女子学園大学、京都にある仏教系「伝統あるお嬢様学校」。
四月、桜が満開の中の入学式。
新入生の水絵は、慣れない靴で急ぐあまりに、坂道で転倒してしまう。
そこに手を差しのべたのは、美しい上級生、日菜子だった。
手続きの不備で入寮が入学式当日となってしまった水絵は、後日、その寮で、日菜子と再会することとなる。
再読月前に読んだ最後が、宮木あや子『あまいゆびさき』とコレもユリ系作品だった。
再読月に時間かけて真藤順丈『宝島』を読み、魂と脳を揺さぶられた。
タイミングが悪いのは、個人的なコトではあるが、ソレを差し引いても、自分の期待する花房観音作品とは、少し趣が異なっていたというのが、第一印象。
まだ、軸足は官能にあった頃の作品。
頁も、言葉も、官能場面に結構費やしてはいるが、女史特有の「情」の重さ、コッテリ感が不足している気が……。
※以下、ネタバレ要素を含みますので、未読の方は、ご注意を……。
第一章~第四章で、時間軸の前後、経過はあるが、四季を巡るような(第二章は厳密に夏とは言い難い部分もあるが)構成。
更に「春」にあたる序章と終章がある。
さらに、序章の前に短い導入があるが、ソレは後程。
第二章以外は基本的に、水絵の視点で描かれている。
しかし、キーパーソン、自分が感情移入し、見ていたのは、圧倒的に日菜子の方。
大好きだった美しい母を摩耗させた、父を、男を、日菜子は忌み嫌うようになったのだろう。
つまりは第三章までの「剛」の日菜子を支え、造っていたのではないか。
一方、導入の最後「母のいない世界は、少女の目には耐えがたい闇でしかなかった」そして、第四章で日菜子に「耐えがたい闇」が迫ったトコロで、日菜子は水絵を見かける。
やがて、「闇」が訪れ、「剛」の日菜子は、最後の手段に出る。
その後、日菜子は「闇」に怯える少女にもどっていく。
彼女の拠り所は、水絵。
そこで、水絵と日菜子の主従逆転(というか、第三章のクライマックス前に水絵が望んだモノに近い関係性)が起こる。
つまりは、先述の導入部は、日菜子の小学校の入学式の場面なのだろう。
終章と呼応するようにしてボカしてあるが、実は、ド頭で語られてるのよね。
そぅ考えると、『一般的価値観に、一矢報いる』花房観音スタイルは、ココでも、健在なのよ。
剃毛の恥辱感や、第三章のクライマックス的官能場面(少し展開的には、出来過ぎ感もあるが)あたりは、団鬼六作品に通じるトコロも感じられた。
そぅ言った意味では、出来れば、現在の経験と、筆力を駆使して、音楽で言うトコの、リミックスやリアレンジをして欲しい一作かもしれない。
『女坂ーver.令和ー 』。
京女生、OGは一読の価値あり!
むしろ、主人公の2人に関する背景の描写が多い。
もちろん、そこにも性的な描写が描かれていて、それが最もボリュームが大きかった。
個人的にはもっと片方に針が振り切っていた方が好みなので、消化不良になってしまった。
拉致られる水絵の彼氏や、水絵が社会人として日菜子と再会を果たす件なんかは、漫画かって突っ込みをいれたくなる。
京都を舞台にしてはいるが、らしさが足らない。
京都は、実は私にとっては所謂観光ガイドに載ってるようなイメージはあまり無い。
どちらかというと源氏物語に代表されるような人間の愛憎入り混じる地のイメージが強く、そういう意味では何の抵抗もなかった。
全く本題とは関係無いが、涙が浮かんだ一文がある。
『人間ってね、未来を夢見ろとか前向きに生きろとか言われるけど、人間を作っているものは、未来じゃなくて、過去だろ。
過去を忘れることなんて、できない。
だって自分の一部なんだから。
どう折り合いをつけていくかということが重要なんだけど、自分というものを形成しているものを、たやすく忘れたり克服したりなんて、できるはずがない。
それをやれる人がいたとしたら、よっぽど鈍感な人間だ』
その初期作品。
桜山女子学園大学、京都にある仏教系「伝統あるお嬢様学校」。
四月、桜が満開の中の入学式。
新入生の水絵は、慣れない靴で急ぐあまりに、坂道で転倒してしまう。
そこに手を差しのべたのは、美しい上級生、日菜子だった。
手続きの不備で入寮が入学式当日となってしまった水絵は、後日、その寮で、日菜子と再会することとなる。
再読月前に読んだ最後が、宮木あや子『あまいゆびさき』とコレもユリ系作品だった。
再読月に時間かけて真藤順丈『宝島』を読み、魂と脳を揺さぶられた。
タイミングが悪いのは、個人的なコトではあるが、ソレを差し引いても、自分の期待する花房観音作品とは、少し趣が異なっていたというのが、第一印象。
まだ、軸足は官能にあった頃の作品。
頁も、言葉も、官能場面に結構費やしてはいるが、女史特有の「情」の重さ、コッテリ感が不足している気が……。
※以下、ネタバレ要素を含みますので、未読の方は、ご注意を……。
第一章~第四章で、時間軸の前後、経過はあるが、四季を巡るような(第二章は厳密に夏とは言い難い部分もあるが)構成。
更に「春」にあたる序章と終章がある。
さらに、序章の前に短い導入があるが、ソレは後程。
第二章以外は基本的に、水絵の視点で描かれている。
しかし、キーパーソン、自分が感情移入し、見ていたのは、圧倒的に日菜子の方。
大好きだった美しい母を摩耗させた、父を、男を、日菜子は忌み嫌うようになったのだろう。
つまりは第三章までの「剛」の日菜子を支え、造っていたのではないか。
一方、導入の最後「母のいない世界は、少女の目には耐えがたい闇でしかなかった」そして、第四章で日菜子に「耐えがたい闇」が迫ったトコロで、日菜子は水絵を見かける。
やがて、「闇」が訪れ、「剛」の日菜子は、最後の手段に出る。
その後、日菜子は「闇」に怯える少女にもどっていく。
彼女の拠り所は、水絵。
そこで、水絵と日菜子の主従逆転(というか、第三章のクライマックス前に水絵が望んだモノに近い関係性)が起こる。
つまりは、先述の導入部は、日菜子の小学校の入学式の場面なのだろう。
終章と呼応するようにしてボカしてあるが、実は、ド頭で語られてるのよね。
そぅ考えると、『一般的価値観に、一矢報いる』花房観音スタイルは、ココでも、健在なのよ。
剃毛の恥辱感や、第三章のクライマックス的官能場面(少し展開的には、出来過ぎ感もあるが)あたりは、団鬼六作品に通じるトコロも感じられた。
そぅ言った意味では、出来れば、現在の経験と、筆力を駆使して、音楽で言うトコの、リミックスやリアレンジをして欲しい一作かもしれない。
『女坂ーver.令和ー 』。
京都は、実は私にとっては所謂観光ガイドに載ってるようなイメージはあまり無い。
どちらかというと源氏物語に代表されるような人間の愛憎入り混じる地のイメージが強く、そういう意味では何の抵抗もなかった。
全く本題とは関係無いが、涙が浮かんだ一文がある。
『人間ってね、未来を夢見ろとか前向きに生きろとか言われるけど、人間を作っているものは、未来じゃなくて、過去だろ。
過去を忘れることなんて、できない。
だって自分の一部なんだから。
どう折り合いをつけていくかということが重要なんだけど、自分というものを形成しているものを、たやすく忘れたり克服したりなんて、できるはずがない。
それをやれる人がいたとしたら、よっぽど鈍感な人間だ』
商業路線に走ったのか、これまでのような作品が書けなくなったのか、作品としてはレベルダウンした感じだ。
京都のお嬢様大学に入学したうぶな女性が女子寮で先輩に女性の歓びを教えられ、男も知り、次第に性に目覚めるという何とも単純なストーリー。
むしろ、主人公の2人に関する背景の描写が多い。
もちろん、そこにも性的な描写が描かれていて、それが最もボリュームが大きかった。
個人的にはもっと片方に針が振り切っていた方が好みなので、消化不良になってしまった。
作品中で、ろくでもない男ばかりが登場する、某国立大学も、架空の名称です。
でも、寺社や幾つかのお店は実在するものなので、読んでいて、何だか嬉しくなります。
私が嫌いな、京都を舞台にした某小説では、行った事のあるお店が登場しても、何だか後ろに作者のドヤ顔が透けて見えるようで、何だか不快だったのですが、この作品では、そういう事が全くありません。
それは、私個人の好みもあるのでしょうが、やはり、作者の力量の差もあるのかもしれません。
官能とか恋愛とか、そういうものは置いておいて、読んでいると何だか、「やっぱり男なんて信用するものじゃないわねー。
結局、女同士が一番話がわかるわー」と、思ってしまいました。
商業路線に走ったのか、これまでのような作品が書けなくなったのか、作品としてはレベルダウンした感じだ。
京都のお嬢様大学に入学したうぶな女性が女子寮で先輩に女性の歓びを教えられ、男も知り、次第に性に目覚めるという何とも単純なストーリー。
作品中で、ろくでもない男ばかりが登場する、某国立大学も、架空の名称です。
でも、寺社や幾つかのお店は実在するものなので、読んでいて、何だか嬉しくなります。
私が嫌いな、京都を舞台にした某小説では、行った事のあるお店が登場しても、何だか後ろに作者のドヤ顔が透けて見えるようで、何だか不快だったのですが、この作品では、そういう事が全くありません。
それは、私個人の好みもあるのでしょうが、やはり、作者の力量の差もあるのかもしれません。
官能とか恋愛とか、そういうものは置いておいて、読んでいると何だか、「やっぱり男なんて信用するものじゃないわねー。
結局、女同士が一番話がわかるわー」と、思ってしまいました。
その初期作品。
桜山女子学園大学、京都にある仏教系「伝統あるお嬢様学校」。
四月、桜が満開の中の入学式。
新入生の水絵は、慣れない靴で急ぐあまりに、坂道で転倒してしまう。
そこに手を差しのべたのは、美しい上級生、日菜子だった。
手続きの不備で入寮が入学式当日となってしまった水絵は、後日、その寮で、日菜子と再会することとなる。
再読月前に読んだ最後が、宮木あや子『あまいゆびさき』とコレもユリ系作品だった。
再読月に時間かけて真藤順丈『宝島』を読み、魂と脳を揺さぶられた。
タイミングが悪いのは、個人的なコトではあるが、ソレを差し引いても、自分の期待する花房観音作品とは、少し趣が異なっていたというのが、第一印象。
まだ、軸足は官能にあった頃の作品。
頁も、言葉も、官能場面に結構費やしてはいるが、女史特有の「情」の重さ、コッテリ感が不足している気が……。
※以下、ネタバレ要素を含みますので、未読の方は、ご注意を……。
第一章~第四章で、時間軸の前後、経過はあるが、四季を巡るような(第二章は厳密に夏とは言い難い部分もあるが)構成。
更に「春」にあたる序章と終章がある。
さらに、序章の前に短い導入があるが、ソレは後程。
第二章以外は基本的に、水絵の視点で描かれている。
しかし、キーパーソン、自分が感情移入し、見ていたのは、圧倒的に日菜子の方。
大好きだった美しい母を摩耗させた、父を、男を、日菜子は忌み嫌うようになったのだろう。
つまりは第三章までの「剛」の日菜子を支え、造っていたのではないか。
一方、導入の最後「母のいない世界は、少女の目には耐えがたい闇でしかなかった」そして、第四章で日菜子に「耐えがたい闇」が迫ったトコロで、日菜子は水絵を見かける。
やがて、「闇」が訪れ、「剛」の日菜子は、最後の手段に出る。
その後、日菜子は「闇」に怯える少女にもどっていく。
彼女の拠り所は、水絵。
そこで、水絵と日菜子の主従逆転(というか、第三章のクライマックス前に水絵が望んだモノに近い関係性)が起こる。
つまりは、先述の導入部は、日菜子の小学校の入学式の場面なのだろう。
終章と呼応するようにしてボカしてあるが、実は、ド頭で語られてるのよね。
そぅ考えると、『一般的価値観に、一矢報いる』花房観音スタイルは、ココでも、健在なのよ。
剃毛の恥辱感や、第三章のクライマックス的官能場面(少し展開的には、出来過ぎ感もあるが)あたりは、団鬼六作品に通じるトコロも感じられた。
そぅ言った意味では、出来れば、現在の経験と、筆力を駆使して、音楽で言うトコの、リミックスやリアレンジをして欲しい一作かもしれない。
『女坂ーver.令和ー 』。
拉致られる水絵の彼氏や、水絵が社会人として日菜子と再会を果たす件なんかは、漫画かって突っ込みをいれたくなる。
京都を舞台にしてはいるが、らしさが足らない。
京女生、OGは一読の価値あり!
京女生、OGは一読の価値あり!
むしろ、主人公の2人に関する背景の描写が多い。
もちろん、そこにも性的な描写が描かれていて、それが最もボリュームが大きかった。
個人的にはもっと片方に針が振り切っていた方が好みなので、消化不良になってしまった。
京女生、OGは一読の価値あり!
むしろ、主人公の2人に関する背景の描写が多い。
もちろん、そこにも性的な描写が描かれていて、それが最もボリュームが大きかった。
個人的にはもっと片方に針が振り切っていた方が好みなので、消化不良になってしまった。
商業路線に走ったのか、これまでのような作品が書けなくなったのか、作品としてはレベルダウンした感じだ。
京都のお嬢様大学に入学したうぶな女性が女子寮で先輩に女性の歓びを教えられ、男も知り、次第に性に目覚めるという何とも単純なストーリー。
その初期作品。
桜山女子学園大学、京都にある仏教系「伝統あるお嬢様学校」。
四月、桜が満開の中の入学式。
新入生の水絵は、慣れない靴で急ぐあまりに、坂道で転倒してしまう。
そこに手を差しのべたのは、美しい上級生、日菜子だった。
手続きの不備で入寮が入学式当日となってしまった水絵は、後日、その寮で、日菜子と再会することとなる。
再読月前に読んだ最後が、宮木あや子『あまいゆびさき』とコレもユリ系作品だった。
再読月に時間かけて真藤順丈『宝島』を読み、魂と脳を揺さぶられた。
タイミングが悪いのは、個人的なコトではあるが、ソレを差し引いても、自分の期待する花房観音作品とは、少し趣が異なっていたというのが、第一印象。
まだ、軸足は官能にあった頃の作品。
頁も、言葉も、官能場面に結構費やしてはいるが、女史特有の「情」の重さ、コッテリ感が不足している気が……。
※以下、ネタバレ要素を含みますので、未読の方は、ご注意を……。
第一章~第四章で、時間軸の前後、経過はあるが、四季を巡るような(第二章は厳密に夏とは言い難い部分もあるが)構成。
更に「春」にあたる序章と終章がある。
さらに、序章の前に短い導入があるが、ソレは後程。
第二章以外は基本的に、水絵の視点で描かれている。
しかし、キーパーソン、自分が感情移入し、見ていたのは、圧倒的に日菜子の方。
大好きだった美しい母を摩耗させた、父を、男を、日菜子は忌み嫌うようになったのだろう。
つまりは第三章までの「剛」の日菜子を支え、造っていたのではないか。
一方、導入の最後「母のいない世界は、少女の目には耐えがたい闇でしかなかった」そして、第四章で日菜子に「耐えがたい闇」が迫ったトコロで、日菜子は水絵を見かける。
やがて、「闇」が訪れ、「剛」の日菜子は、最後の手段に出る。
その後、日菜子は「闇」に怯える少女にもどっていく。
彼女の拠り所は、水絵。
そこで、水絵と日菜子の主従逆転(というか、第三章のクライマックス前に水絵が望んだモノに近い関係性)が起こる。
つまりは、先述の導入部は、日菜子の小学校の入学式の場面なのだろう。
終章と呼応するようにしてボカしてあるが、実は、ド頭で語られてるのよね。
そぅ考えると、『一般的価値観に、一矢報いる』花房観音スタイルは、ココでも、健在なのよ。
剃毛の恥辱感や、第三章のクライマックス的官能場面(少し展開的には、出来過ぎ感もあるが)あたりは、団鬼六作品に通じるトコロも感じられた。
そぅ言った意味では、出来れば、現在の経験と、筆力を駆使して、音楽で言うトコの、リミックスやリアレンジをして欲しい一作かもしれない。
『女坂ーver.令和ー 』。
拉致られる水絵の彼氏や、水絵が社会人として日菜子と再会を果たす件なんかは、漫画かって突っ込みをいれたくなる。
京都を舞台にしてはいるが、らしさが足らない。
京都は、実は私にとっては所謂観光ガイドに載ってるようなイメージはあまり無い。
どちらかというと源氏物語に代表されるような人間の愛憎入り混じる地のイメージが強く、そういう意味では何の抵抗もなかった。
全く本題とは関係無いが、涙が浮かんだ一文がある。
『人間ってね、未来を夢見ろとか前向きに生きろとか言われるけど、人間を作っているものは、未来じゃなくて、過去だろ。
過去を忘れることなんて、できない。
だって自分の一部なんだから。
どう折り合いをつけていくかということが重要なんだけど、自分というものを形成しているものを、たやすく忘れたり克服したりなんて、できるはずがない。
それをやれる人がいたとしたら、よっぽど鈍感な人間だ』
作品中で、ろくでもない男ばかりが登場する、某国立大学も、架空の名称です。
でも、寺社や幾つかのお店は実在するものなので、読んでいて、何だか嬉しくなります。
私が嫌いな、京都を舞台にした某小説では、行った事のあるお店が登場しても、何だか後ろに作者のドヤ顔が透けて見えるようで、何だか不快だったのですが、この作品では、そういう事が全くありません。
それは、私個人の好みもあるのでしょうが、やはり、作者の力量の差もあるのかもしれません。
官能とか恋愛とか、そういうものは置いておいて、読んでいると何だか、「やっぱり男なんて信用するものじゃないわねー。
結局、女同士が一番話がわかるわー」と、思ってしまいました。
商業路線に走ったのか、これまでのような作品が書けなくなったのか、作品としてはレベルダウンした感じだ。
京都のお嬢様大学に入学したうぶな女性が女子寮で先輩に女性の歓びを教えられ、男も知り、次第に性に目覚めるという何とも単純なストーリー。
拉致られる水絵の彼氏や、水絵が社会人として日菜子と再会を果たす件なんかは、漫画かって突っ込みをいれたくなる。
京都を舞台にしてはいるが、らしさが足らない。
その初期作品。
桜山女子学園大学、京都にある仏教系「伝統あるお嬢様学校」。
四月、桜が満開の中の入学式。
新入生の水絵は、慣れない靴で急ぐあまりに、坂道で転倒してしまう。
そこに手を差しのべたのは、美しい上級生、日菜子だった。
手続きの不備で入寮が入学式当日となってしまった水絵は、後日、その寮で、日菜子と再会することとなる。
再読月前に読んだ最後が、宮木あや子『あまいゆびさき』とコレもユリ系作品だった。
再読月に時間かけて真藤順丈『宝島』を読み、魂と脳を揺さぶられた。
タイミングが悪いのは、個人的なコトではあるが、ソレを差し引いても、自分の期待する花房観音作品とは、少し趣が異なっていたというのが、第一印象。
まだ、軸足は官能にあった頃の作品。
頁も、言葉も、官能場面に結構費やしてはいるが、女史特有の「情」の重さ、コッテリ感が不足している気が……。
※以下、ネタバレ要素を含みますので、未読の方は、ご注意を……。
第一章~第四章で、時間軸の前後、経過はあるが、四季を巡るような(第二章は厳密に夏とは言い難い部分もあるが)構成。
更に「春」にあたる序章と終章がある。
さらに、序章の前に短い導入があるが、ソレは後程。
第二章以外は基本的に、水絵の視点で描かれている。
しかし、キーパーソン、自分が感情移入し、見ていたのは、圧倒的に日菜子の方。
大好きだった美しい母を摩耗させた、父を、男を、日菜子は忌み嫌うようになったのだろう。
つまりは第三章までの「剛」の日菜子を支え、造っていたのではないか。
一方、導入の最後「母のいない世界は、少女の目には耐えがたい闇でしかなかった」そして、第四章で日菜子に「耐えがたい闇」が迫ったトコロで、日菜子は水絵を見かける。
やがて、「闇」が訪れ、「剛」の日菜子は、最後の手段に出る。
その後、日菜子は「闇」に怯える少女にもどっていく。
彼女の拠り所は、水絵。
そこで、水絵と日菜子の主従逆転(というか、第三章のクライマックス前に水絵が望んだモノに近い関係性)が起こる。
つまりは、先述の導入部は、日菜子の小学校の入学式の場面なのだろう。
終章と呼応するようにしてボカしてあるが、実は、ド頭で語られてるのよね。
そぅ考えると、『一般的価値観に、一矢報いる』花房観音スタイルは、ココでも、健在なのよ。
剃毛の恥辱感や、第三章のクライマックス的官能場面(少し展開的には、出来過ぎ感もあるが)あたりは、団鬼六作品に通じるトコロも感じられた。
そぅ言った意味では、出来れば、現在の経験と、筆力を駆使して、音楽で言うトコの、リミックスやリアレンジをして欲しい一作かもしれない。
『女坂ーver.令和ー 』。
作品中で、ろくでもない男ばかりが登場する、某国立大学も、架空の名称です。
でも、寺社や幾つかのお店は実在するものなので、読んでいて、何だか嬉しくなります。
私が嫌いな、京都を舞台にした某小説では、行った事のあるお店が登場しても、何だか後ろに作者のドヤ顔が透けて見えるようで、何だか不快だったのですが、この作品では、そういう事が全くありません。
それは、私個人の好みもあるのでしょうが、やはり、作者の力量の差もあるのかもしれません。
官能とか恋愛とか、そういうものは置いておいて、読んでいると何だか、「やっぱり男なんて信用するものじゃないわねー。
結局、女同士が一番話がわかるわー」と、思ってしまいました。
京都は、実は私にとっては所謂観光ガイドに載ってるようなイメージはあまり無い。
どちらかというと源氏物語に代表されるような人間の愛憎入り混じる地のイメージが強く、そういう意味では何の抵抗もなかった。
全く本題とは関係無いが、涙が浮かんだ一文がある。
『人間ってね、未来を夢見ろとか前向きに生きろとか言われるけど、人間を作っているものは、未来じゃなくて、過去だろ。
過去を忘れることなんて、できない。
だって自分の一部なんだから。
どう折り合いをつけていくかということが重要なんだけど、自分というものを形成しているものを、たやすく忘れたり克服したりなんて、できるはずがない。
それをやれる人がいたとしたら、よっぽど鈍感な人間だ』